プロジェクトZ project-z/proyecto-z

人間五十をすぎて、どんなことが可能か?
我が身で試す。
その経過、結果など事の顛末を記録する。
何事も、とくに習い事は、基本から徹底してやってみることを試みる。
各間の営みを代表するひとつずつ、八つのプロジェクトを、少しずつ
少しずつ。
新しく始めること、これまで少しは手を染めてきたこと。
同時並行を基本に、ときには一事集中で。
まっ、臨機応変に。


八つのプロジェクト

楽音の間◆ケーナ上達へ加速せよ!!
楽刻の間◆板画道:亜北斎は北斎にどこまで近づけるか?
楽彫の間◆円空仏何体彫れるか?
楽縫の間◆仕立屋への道
楽案の間◆思考システム「Hakkeplan」の展開
楽言の間◆「先人たちに学ぶ英語学習法」に学ぶスペイン語の上達
楽然の間◆ドングリ大作戦
楽生の間◆太極拳から学んだ「放鬆・站椿・勁」を練る

楽音の間  彫九郎/真音

◆ケーナ上達へ加速せよ!!

縁起

・彫九郎は1973年大学を卒業し社会に出た年、まだフォルクローレというものが一般的でなかった頃からケーナを独学で始めた。途中病を患ったりもしケーナをおいていた。真音と結婚してからもおいたままだった。

・結婚12年目の1994年の6月、真音がギターを習い始めた。2003年6月で丸 9年。毎年、ギター発表会でその成果を発表してきた。大分ものになってきたようだ。その間、彫九郎はおそらく自分が出演するよりドキドキする想いで客席から見守ってきた。

・真音のギターが少しものになってきた頃、せっかくだからギターとケーナのデュエットができたらと、彫九郎は再びケーナを手にしたのだった。一方、真音の発表会も何回か過ぎた頃、発表会にケーナも参加したらという話がではじめた。いや、まだ舞台に立つのはおこがましいと、それから2、3年腕に磨きをかけた。

・そして、彫九郎52歳の誕生日(2001年11月5日)の約一ヶ月前10月14日、真音のギター発表会にケーナアンサンブルで初舞台を踏む。「コンドルは飛んでいく」と「こだま」の 2曲を演奏する。出来は初舞台としてはまあまあであったが、人前で演奏するからにはできる限りのことはしなければと決意。どうせやるならギターとケ−ナのデュオをと、Los Galapasを結成する。

・30 年前に始めたケーナ。遅蒔きながら花咲かせたいと思ってしまったのである。

事の顛末

2001年(52歳/49歳)

・10月14日(日):真音のギター発表会にケーナアンサンブルで初舞台を踏む。「コンドルは飛んでいく」と「こだま」の2曲を演奏する。初舞台としてはまあまあであったが、手応えを得る。

・12月16日(日):真音のギター教室の忘年会で、Los Galapas として初舞台。「スカボローフェア」を演奏。まあまあ。

2002年(53歳/50歳)

・独習ではあったが、30 年前に始めた頃はかなり入れ込んでいた。その後しばしのブランクはあったものの基本と知識はあるので、本格的に練習し出すと結構上達する。

・9月23日(月):発表会二回目の舞台を踏む。
ケーナアンサンブルで「灰色の瞳」を演奏。
この歳になって、基本の大切さと、練習量がものをいうことを実感する。

・12月15日(日):真音のギター教室の忘年会。
Los Galapasとして「風とケーナのロマンス」を演奏。
う〜ん、ちょっと不満足。

2003年(54歳/51歳)

・「継続は力」がよく座右の銘とされるが、わたしは「量質転化」といきたい。「継続」は積み重ねた時間の量。それに「集中」という短時間の量を加えたい。人生残り少ないので。
「量はあるとき質に転化する」のだ。

・10月13日(月): 発表会三回目の舞台を踏む。年の始めは父の死もあり、ほとんど練習できなかった、いや、しなかった。しかし 5月からは自分でも驚くほどコンスタントに励んだ。手応えは充分。「コンドルは飛んでいく」と「花祭り」の 2曲をケーナアンサンブルで演奏する。「コンドル〜」は、高音がちょっと出ないところもあったが、前回よりは、もちろん上達 !!「花祭り」はよかったらしい。皆さんから「感動した」(小泉さんじゃありませんが) のお言葉を頂戴した。

・12月21日(日):真音のギター教室の忘年会。
Los Galapasとして「コーヒールンバ」を演奏。
自作のルンバポンチョ、ルンバ帽を着し、ちょっとジャズっぽく。
結果上々、アンコールに応え、「明日があるさ」をケーナ独奏。

2004年(55歳/52歳)

・継続的に練習するようになった。むしろ、やらないと気持ち悪いくらい。そのせいか、着実に上達。

・そんな折り、急遽 4月にギター文化館というギター演奏のために作られたホールで練習を兼ねたミニコンサートをやるという。内はとはいえ一般客が入ってくる可能性ありのシチュエーション。心して練習に励む。

・4月4日(日):ギター文化館にてミニコンサート。
Los Galapasとして「スカボローフェア」を演奏。
前回の演奏に比べれば格段によくできていたと思う。それでも、満足いかないのはレベルが上がってきているからだと思う。ギター文化館に行く途中、花見を兼ねてフラワーパークによる。とはいえこの日は花冷えもいいところ、小雨も降る。そんな中、せっかく来たのだからと真音と傘を差しつつ山頂に登る。雨の中遠くに煙る山々。アンデスに見立て「コンドルは飛んでいく」を吹く。コンドルならぬカラスが鳴く。そして練習を兼ねて「スカボローフェア」を。手は凍えていたが、ケーナの音は思いの外力強く響く。よい思い出となる。

・気をよくし、練習に励む。ますますよい音が出るようになる。
現在「ミッシェル」に挑戦。

以上、2004年4月現在
<つづく>

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楽刻の間  葛飾亜北斎

◆板画道:亜北斎は北斎にどこまで近づけるか?

縁起

・葛飾亜北斎の木版画に対する想いは、北斎というよりも志功さんの作品との出会いが招いたものである。ときは昭和四十四、五年頃、東急日本橋店で行われた「棟方志功展」で、かの「釈迦十大弟子之柵」に出会って受けた何かは計り知れないものであった。

・ちょうどその頃、弓波は若きが故の人生に対する疑問を抱え、鬱々としていたという。そんなとき、たまたま通りかかった小さな画廊に展示されていた棟方志功の作品、そこに繰り広げられていた力強い躍動に、大きな力を得、立ち直ることができたという。

・翌年の年賀状だったと思うが、やはり前から強く惹かれていた円空仏を題材に木版で作成した。そして 1999年以降、年賀状は木版で作り続けだした (楽刻の間/営み参照) 。同時に、志功さん以外の木版画家の作品を見だした。志功さんと同じ時代に活躍し、102歳まで生きた平塚運一、やはり同時代で若くして没した谷中安規などの作品が心をとらえた。それぞれ独自の作風にもかかわらず、心をとらえた共通点は「簡潔さ」である。

・二〇〇一年一月七日夕刻、陸橋にさしかかった電車の窓から目にした光景は! アルプスの連峰を左右に従え真っ黒に聳える富士。その左峰に、今まさに沈まんとする火焔のような夕陽の姿だった。山の端からその少し上空まで夕焼けのオレンジ色が、そしてその上は限りなく天空に広がる青。亜北斎誕生のちょうど百年前(北斎は1849年に没し、亜北斎は1949年に生まれた)、北斎もきっとこんな光景を見て感動していたのだろう。「富嶽三十六景・凱風快晴」いわゆる「赤富士」。亜北斎にとって特別な存在となったのである。

・そして、いつか亜北斎作「富嶽一景・火焔黒富士」の完成を目指し、当面は、墨だけを使った黒と白の作品を作り続けてみようと思っている。

事の顛末

以上、2004年4月現在

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楽彫の間  仏師善功

◆円空仏何体彫れるか?

縁起

・円空仏を彫ることは、仏師善功が物心ついて最初に想いを抱いたことである。そして、思い続けながらも実現できないでいたが、柊家八角堂開堂を機に決行する。

・円空は1631年に生まれ、1663年32歳の時、忽然と岐阜県の美並村に現れ、この年11月6日(惜しい!!善功は11月5日生まれ) 三体の仏像を作った。それまでの年譜は空白で、 32歳から精力的な遊行造像の活動に入った。そして1695年(元禄8年) 64歳で入寂(僧が死ぬこと)するまで十万体以上の仏像を造顕したという。十万体を造顕するには一日十体彫って三十年近くかかる計算だ。善功は果たして何体彫れるだろうか?

・このプロジェクトは最も重くかつ終のものとなるだろう。

事の顛末

以上、2004年4月現在

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楽縫の間  縫方糸功(糸空無)/陽希蓮

◆仕立屋への道

縁起

・四十をすぎた頃から無性に自分の手で服を作りたくなった縫方糸功。父から受け継いだ血であろうか。糸功はまたの名を糸空無というデザイナーである。いずれはオリジナルデザインの服を。先ずは自分が着る服をそして、あわよくば売り物に。そのとき仕立屋「柊屋」が誕生する。

事の顛末

2003年(54歳)

・9月8日(月) :マイミシンを注文する。なんと通販で。
・9月12日(金):型紙を購入。プロジェクト発進に向け準備着々。
・9月19日(金):午前9:00頃ミシン到着。早速テーブルに設置する。

2004年(55歳)

・1月、指編みにより、マイ・マフラーを作る。この冬はこのマフラーで寒さを乗り切る。

以上、2004年4月現在
<つづく>

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楽案の間  南名善案/千三案

◆思考システム「Hakkeplan」の展開

縁起

・まだ、南名善案が企業デザイナーのとき、工業デザインという同じ経歴を持つ今泉浩晃さんの考えたMandal-Art(マンダラート)という思考法に出会う。3×3=9 画の図形の中心にテーマを書き、周りの 8つのセルを使ってリニア(直線的)でなくノンリニアな思考を行うというもので、日々のスケジューリングから生き方のデザインまで多種多様な事に活用できるツールである。

・その頃、善案は太極拳を学んでおり、関連する中国思想に非常に興味をもっていた。そのうちのひとつに「易経」があった。乾(けん)・兌(だ)・離(り)・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん) の八つの卦を組み合わせて森羅万象を解き明かそうという思想。これを元にしたのが易占いである。この八卦に照らし 8つの単位でものを考えるということしていた。そんなとき Mandal-Art に出会ったのである。自分が考えていたことズバリであった。それを体系化した先人がいたのだ。同じ工業デザイナー。考え方がとてもよく分かった。そして Mandal-Artを参考させていただき自作の思考システムとして「Hakkeplan」 が誕生した。

・アイデアを発想したり、まとめたりするためのマイ思考法「Hakkeplan」8 つの単位でものを考え、まとめていく方法。易経の考え方に強く影響を受けたことから命名。

・これまで、いろいろと活用(もちろん柊家八角堂計画も)してきたが、もっと掘り下げてみようと思う。

事の顛末

以上、2004年4月現在

                        この頁のはじめへ


楽言の間  秋葉原杜成/文奈

◆「先人たちに学ぶ英語学習法」に学ぶスペイン語の上達

縁起

・熱しやすく、ここと思うと集中力を発揮するが、何にでも興味をもってしまうが故、いろいろなことに手を染めてしまう秋葉原杜成。そんな杜成のこれまでの中で、スペイン語の独学は結構いいところまでいった。何しろ、文奈を射止めたのだから。

・楽音の間でお話ししたようにケーナそしてフォルクローレに魅せられた杜成こと善八は、ケーナと同時にフォルクローレの歌詞を理解するためスペイン語を独学し出した。 24 歳の頃である。ジャズを、ビートルズを好きになった人が英語をものにしてしまうように、音楽は語学を修得するには格好の手段である。

・同年代の方ならよくご存じだと思うが、その頃の語学学習の道具としてリンガフォンというのがあった。当時でも2万5、6千円はしたと記憶しているから、結構いい値であったと思う。そんな物に金を出すのは杜成としてはとても珍しいことであった。それだけ本気だったのだろう。その他に、なかなか手に入りにくかったスペイン語の読本を丸善で頼んでスペインから取り寄せてもらったりなど、できる限りの手を尽くしてスペイン語に取り組んだものだ。その甲斐あって、基本単語1500 語はほぼものにしたし、簡単な読本は辞書を少し引くだけで読めるくらいになっていた。

・文奈こと弓波に出会ったのは、スペイン語をはじめてから八年後であった。スペイン語に関する知識が口からあふれ出てくる?? 同じ頃、先生についてスペイン語を習っていた弓波にとって、そりゃーもう「ステキ」に思えたことでしょう?? というわけで二人は結ばれるのですが、その後二十年あまり、二人ともスペイン語の勉強はさっぱりというわけである。

・ところが最近、「先人たちに学ぶ「四○○年の知恵」日本人に一番合った英語学習法」という本に出会い、かねてより英語以外の言語の学習ノウハウのバリエーションの少なさに業を煮やしていた杜成は、一丁これをスペイン語に当てはめて改めてスペイン語の本格マスターに取り組んでみようと思ってしまったのである。

・ちなみに、「先人たちに〜」なる本は英学を研究している斉藤兆史東大助教授の著になるもので、基礎訓練―素読・暗唱・文法・多読―をみっちりやれというものである。

事の顛末

2004年(55歳)

・教材となる良質の読本を探し求めているところ。

以上、2004年4月現在
<つづく>

                        この頁のはじめへ


楽然の間  暮西功森/風花

◆ドングリ大作戦

縁起

・柊家八角堂開堂時の2002年現在、堂の周辺にいくつもあった雑木林が二年後の2004年にはすっかり減ってしまった。幸い、堂の前は小学校の緑、また近くには市の管理する公園があって、ここは雑木林になっている。秋になるとコナラ、シイ類のドングリがびっしり地面を覆う。

・2002年の冬、そこで拾った数粒のドングリを鉢に埋めてみた。翌年春四月、出ました出ました、ドングリのかわいい双葉が。2003年冬も一鉢埋めてみました。2004年4月現在まだ何も出てきていません。

・2003年の秋だったか、ある土曜の夜、外出先から少し遅く家路に就いた暮西功森と風花は、帰宅してテレビのスイッチを入れると、たまたまテレビ朝日 (10ch) になっていて、「宇宙船地球号」という番組だった。気になっていたが時間が合わずいつもは見られない番組だ。この時もすでに半分以上過ぎていた。しかし、功森はその内容に釘付けになった。ある大学の教授がドングリから苗を育て森を再生しようという活動を紹介していたのである。その時点で教授の名前は分からない。しばらくすると大学名と教授の名前が紹介された。横浜国大名誉教授:宮脇昭先生だった。そういえば先日地元の本屋で「鎮守の森」という本を手に取った。たしか著者は宮脇とあったと思う。間もなく番組は終了する。

・次の日から宮脇先生の著書探しが始まった。「鎮守の森」はすぐ見つかった。その場で購入。巻末に紹介されている著書をチェックし 2、3 の本屋で何冊かを購入する。

・そんな折り、地元の本屋で本人の著作ではないが、ノンフィクション作家が宮脇先生の活動を取材した本を見つける。一志治夫著:「魂の森を行け―3000 万本の木を植えた男の物語―」である。早速読み始める。思わず涙がにじんでしまった部分もあった。

・今年の冬から、あの近隣公園のドングリをいっぱい拾って、できる限りたくさん埋めてみようと思った。

事の顛末

以上、2004年4月現在

                        この頁のはじめへ


楽生の間  坤土離風鳥/ひいら

◆太極拳から学んだ「放鬆・站椿・勁」を練る

縁起

・坤土離風鳥は、1989年から1997年までの8年間太極拳を習っていた。風鳥が金をかけて人に物事を習うのは、学校は別としてこれまでの人生で太極拳だけである。もっともテニスのトーナメントクラスの短期間の講習を受けたことはあるが。

・太極拳といっても一般に知られている健康目的のものではなく、太極拳の源流である武術としての陳式太極拳である。現在でも、中国河南省温県陳家溝というところでは四百年前から、陳式太極拳の伝承を生業としている一族がいるのだ。黄河を挟んでかの嵩山少林寺と相対して位置する。

・健康のためにと始めた太極拳であったが、その源流にある思想に触れ、むしろその思想の方に大きな興味を抱いていった。陰陽・太極・五行・八卦などの伝統思想はとにかくおもしろかった。そして風鳥の人生観に大きな影響を与えた。

・生きるということについて、いろいろ考え試してみるのが「楽生の間」である。今、太極拳そのものを習うことは止めてしまったが、生き方そのものの根本的な部分で、太極拳から学んだものを、改めて練っていってみようと思う。

・「放鬆・站椿・勁」とは。
放鬆(ファンソン):太極拳では、脱力し、体がゆるんだ状態で戦うことを放鬆という。しかし、ゆるむ、リラックスといったような言葉では表現しきれない意味が内包されている。一般にスポーツや格闘技における脱力は、ゆるめることによってよりスピードを上げる、あるいはより大きなパワーを出すためのものととらえられているが、太極拳の放鬆は、純粋な柔でも純粋な剛でもない、陰陽がバランスよく配合された状態で、この状態でこそ相手と自分の力をうまく利用でき、大きなパワーが発揮できると考える。そして、何事も極端に偏らない「ちょうどよい」状態に我が身を置くことそのものが放鬆の目的である。

站椿(たんとう):「椿(ここでは木偏に春を使っているが正しくは春の「日」の部分が「臼」である。第2水準にもないので)」という字は杭と同義語で、站椿とは「杭のように立つ」という意味である。立禅ともいい、ひたすら立つだけの訓練法。風鳥も太極拳をやっていたときは一時間くらい立ち続けたこともある。効率の良いバランスの取れた身体構造、軸がぶれないバランスを身体に認識させる訓練である。天・人・地をつなげることが大事で足はしっかりと地面に根を張り、かつ頭は天を持ち上げる。そんな立ち方を身につけるために行う。骨格を前後、左右、上下にしっかりと伸ばす。前後、左右、上下の力を合一させる。これを「六合」といい、これにより自分自身が宇宙の中心となったつもりで、全身をひとつにする。この感覚と、構造上正しい関節角度を会得することにより、これを保ちながらその空間を拡大し、動くことができるようになる。

勁(けい):一般的には力と同義にされているが、中国武術の世界では単純な筋力ではなく技術的なプロセスを経て発する力を意味する。「内勁(身体に内在する勁≒力)」を拳や蹴りに出すことを「発勁」といい、相手の勁を察するのを「聴勁」、相手の勁を交わすのを「化勁」という。

事の顛末

1989年(40歳)〜1997年(48歳)

・8年間、陳式太極拳を習う。太極拳を通じて得たものを紹介しておこう。

一、源流にある中国伝統思想のおもしろさを知ったこと。

一、「気」ということで一概に片づけられないが、精神的なものにしろ、 肉体的なものにしろ内面から生み出されるすごい力「勁力(けいりょく)」というものがあることを知り、それを体感したこと。

一、集中力の具体化を実感したこと。太極拳の練習では業をより高めるために、気を集中することが大きな課題である。そういう訓練をしたことによって、例えば、駅のホームに立っているとき、スピードを緩めず通過していく特急や、貨物列車の台数を数えたり、やはりホームで、ずらっと並んでいる照明器具を一気に数えたり、また、電車内などで使われている発光ダイオード表示器のびっちりならんだ発光ダイオードを数えたり、ということが難なくできるようになった。

一、全日本武術太極拳選手権大会に出場したこと。連盟に加盟している団体の者であれば誰でも参加できるが、そこはある程度できなければというところ。1993年8月。その年は第10回大会で会場は大阪府立体育会館。大相撲大阪場所が行われるところ。出番の前の激しい緊張感はあとにも先にも、また他のどんな状況よりもすごかった。しかし、一度演武場に立ってしまうと意外と落ち着いてしまう。むしろスポットライトを浴びて、病みつきになりそうな昂揚感であった。紅白歌合戦の舞台に立つ歌手もこんな感じを味わっているのではないかとさえ思う。演武は二人が同時に行うが、たまたま一緒にするはずの相手が棄権で、一人で演武をする羽目に。しかし、それも二度とは味わえぬ貴重な体験だった。結果は32人中 28番。体操やフィギュアスケートのように5人の審判が10点満点で採点する。最高、最低点を除いた 3人の得点の平均点が成績となる。我が得点は 8.23 だった。しかし、風鳥の場合上下の幅が非常に大きかった。上は8.70、下は7.60くらいだった。8.70という点数は 8位に相当する。この点数を出してくれた審判は本場中国の推手という格闘技に参加している人で、その人が高く評価してくれたということは、外見よりも武術としての動きが認められたのではないか !?と大きな自信を持った次第である。

・ちなみに、ひいらは風鳥より2年早い1987年に太極拳を始め、第9回大会で5位に入賞している。得点は 8.70で、3位とは0.03、4位とは0.01の僅差だった。

一、前述の陳式太極拳発祥の地「陳家溝」に行って本場の空気を体感するとともに、中国という国、とくに北京などの都会でなく、地方の中国をこの目で見たこと。陳家溝へは上海から河南省の省都鄭州まで列車で14時間ほど行きそこからバスで3時間、途中黄河を渡り温県という町に着く。そこからさらに車で 1時間くらいのところにあった。

2002年(53歳/50歳)

・7月27日(土):ひいらより早朝練習の提案あり。風鳥も二、三日前から同じ事を考えていたので早速翌日より始めることにする。

・7月28日(日):ちょうど夏休みなので、家の前の小学校 (なぜか第八小学校)の校庭で太極拳を中心とした運動を久しぶりに始める。

・10月13日(日):9月に入り学校が始まり、日曜の朝に移して練習を続けたが、日曜は少年野球の練習があり、それより早く起きるのが辛くなり、この日をもって途絶える。

2003年(54歳/51歳)

・前年暮れから父の具合が悪くなり、一月他界す。そんなわけで再開しそびれたままとなる。

2004年(55歳/52歳)

・太極拳を通じて身体感覚の重要性は感じていたが、古武術研究家の甲野善紀さんの実践を知り、さらにその甲野さんが注目した中国武術をとおして、もう一度自分なりの方法で身体感覚というものを磨いてみようと思う。

以上、2004年4月現在
<つづく>

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